2017年4月11日火曜日

「絶家を思う」新講社版


時代が変わってきて、「家」というものに対する人々の思いが変わってきた。
そんな中で、長宗我部家をこれからどのように維持していくか。
いろいろ思い悩むことが多い。
少子高齢化が続く中、ただひたすら無理矢理に長宗我部の家を繋げと、子供に押し付けても、それは意味のないことであろう。それではどうしたらよいのであろうか。
そんな思いを、社会の変化を見ながら、エッセイ風ではあるが、綴ってみた。

 
http://shinkosha-jp.com/details.jsp?goods_id=2761
 

2015年2月18日水曜日

表の歴史には必ず裏の歴史もある


作家の司馬遼太郎は、エッセイなどに土佐人のことをとりあげていることが多い。また、人物についても土佐出身の長宗我部家の人物をよく書いている。土佐から発して四国をほぼ平定し、淡路や播磨、そして九州などを治める「西海の王」を夢見た長宗我部元親を主人公にした「夏草の賦」、さらには元親の継嗣盛親を描いた「戦雲の夢」などがある。

石田三成についた盛親が関ヶ原で徳川家康に敗れた後、長宗我部家は土佐を改易され、その後には山内一豊が入ってきて、長宗我部の遺臣たちは下士とされ、上士である山内侍とは厳しく差別された。そうした抵抗のエネルギーが坂本龍馬ら幕末の志士を生んだ。

ところで、司馬作品に私が衝撃を受けた文章がある。「夏草の賦」の最後の1文だ。それは「大坂の陣の結果、長曾我部家は、あとかたもなくなり、歴史から消えた。」となっていた。それではいったいこの私は何なのか。

確かに、大阪の陣により家康によって、長宗我部家の本流となる盛親の末流は根絶させられ、歴史の表舞台から消える。だが、現実には元親の流れをくんだ一族が、「忍従」の人生を決意し、必死で家を繋いだ。そして、三百年近くも続いた徳川時代を乗り越え、家臣筋の龍馬たちによってなされた大政奉還と同時に家名を復活させ、長宗我部の先祖を祀る秦神社も創設した。栄光に輝く徳川政権下の表の歴史の裏側でのわが先祖の生き方。これまた人生であり歴史でもある、と思う。

2015年1月28日水曜日

八尾の常光寺を訪れる


大坂の陣で、長宗我部盛親がむなしく散ってからことしでちょうど400年になる。

先日、盛親隊が戦った大阪、八尾の常光寺に行ってきた。盛親隊は、八尾・若江で、藤堂高虎隊とぶつかり、激戦となった。その時、藤堂高虎が、長宗我部隊の首実検をしたのが常光寺である。

常光寺には、藤堂隊の戦死者の墓所はあるが、むろん盛親隊のそれはまったくみあたらなかった。ただ、藤堂隊の戦死者の中には桑名弥次兵衛らがいて、その戒名などは確認できた。

弥次兵衛は盛親が改易される前は、長宗我部家の家臣であった。そうしたかつての長宗我部の家臣らが、八尾・若江の戦で、盛親隊と戦い、敗れてこの常光寺に葬られている。常光寺の墓地に立つわが身には、なにか言いようのない複雑なものが感じられた。

2013年12月27日金曜日

土佐南学と勤王の志士

 南宋時代に朱子が、漢民族の国家を守ることを狙いとして、確立したのが朱子学(海南朱子学、南学)です。
 この海南朱子学が、大陸から初めて日本に入ってきたのは、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の時代です。
後醍醐天皇は、武家による政治が国体の本義に背くものとして、王政復古の意向を持っていたため、この学問に強い関心を寄せ、玄慧(げんえ)から講義を夜が白々と明けるまで受けたといわれます。
この海南朱子学は、南村梅軒によって、周防経由で土佐に入ってきました。
南村梅軒は土佐の吉良峰の城主、吉良宣經(のぶつね)主従に講義をしたといわれます。そして吉良條目という法律を作ります。
後醍醐天皇の時代から300年程が経過していました。
斬ったり斬られたりしていた戦乱の世に仁義道徳を熱心に学んでいたのです。
 
 その後、長宗我部元親もこの南海朱子学に興味を抱いて、郭中講義をして領民を導きます。そして、この南海朱子学の思想をもとに「長宗我部百箇條」が生まれます。

 関ヶ原の役で、長宗我部氏が改易された後も、谷時中、野中兼山、谷秦山らによって、土佐の山間僻地で、この海南朱子学は純粋培養されて、幕末に至り、武市半平太、坂本龍馬ら土佐勤王党の天皇親政の思想を花開かせ、明治維新を導きました。

2013年9月30日月曜日

夏の夜の夢 「元親公孫」

昭和4年の1月28日に昭和天皇から、

長宗我部家の中興の祖、長宗我部元親に対して正三位が下賜された。
「元親公孫」として、それを受けたのは私の祖父である親(ちかし)である。
その際の、贈位書の箱書きは「贈 元親公孫、十四世親」となっている。
当家の家系は元親の末弟である長宗我部親房(島)から繋がっていて、江戸時代は島姓を名乗っていた。
その二代目は「五郎左衛門」である。

実は、この親房から計算すると親(ちかし)は十五世となる。
天皇家が親を十四世としているのは、元親の次に五郎左衛門(親房の二代目当主)をおいて、それから発して十四世としているのではないだろうか。
そして、この五郎左衛門には謎が多い。
島家を継いで、長宗我部家の血筋であり、元親公から「大恩」を受け、重要な縁者である、ということは残された資料から分かる。
また、明確に記されてあるのは、大坂の陣(1615年)の時に、「二十二歳」であったということだ。なぜこの二十二歳だけ特筆して、後世に残しているのか。
そして、本人の五郎左衛門の直筆のものはなぜ残されていないのか。
このあたりのことをいろんな角度から類推してみた。
「この五郎左衛門は元親56歳のときの実子ではなかったのか」
そう考えるとぴったりと合う。発想が、とっぴ過ぎるであろうか。

智の人でもあった元親は、「豊臣家の崩壊、徳川家康の新しい時代の到来」
を予見し、長宗我部家を残すために、一番遠い、末弟の島家に家の将来を託して、秘匿したのではないか。
また、元親は家康の権謀術策を知り尽くしていたのである。
だから、山内家も五郎左衛門にじかに当主が私信出したり、丁重な対応をしてきたのではないだろうか。


2013年7月17日水曜日

徳川時代、元親法要の記録


 長宗我部家の菩提寺である雪渓寺(高知市長浜)に、徳川政権時代に執り行われた、長宗我部家中興の祖で、前領主の長宗我部元親の200回忌、250回忌の法要の詳細記録が保存されていた。
 そのなかには、当時の藩主である山内家に届け出た、法要執行の願書の詳細も記されている。
 具体的には、法要の周知の方法、その記述の詳細などが主なもので、これは、立て札に、藩内要所に執行の日時場所などを書き、行っている。
 他には、法要を行った僧侶名、法事の食事の詳細、参列者の氏名、香典の額、供物の内容など詳しい。
 250回忌にはわが長宗我部の十二代、與助重親も参列、香典に加え、花を供えている。

2013年4月24日水曜日

あやめの花が咲きました

暑い日とか寒い日とか続いています。
その性かどうか。
ヤクルトスワローズが負け続けています。
やっとカープの前田の犠牲をいただき勝ちましたが、
次の試合は雨で中止です。

それはともかく。
近世史の磯田道史さんの
「龍馬史」が5月初めに文春文庫になりますが、
その解説を書かせていただきました。
歴史に「もし」はないですが、
もし、盛親に運があって、関ヶ原
あるいは大坂の陣をうまく乗り越えていたならば、
土佐藩は幕末にあのように、
混乱し、また坂本龍馬、武市半平太ら多くの犠牲者を
出すことはなかっただろうし、
幕末史も大きく変わっていたであろう。
そんなことを思い、書きました。
お時間があったら、
読んでみてください。

2013年1月29日火曜日

タイミングについて


何事にもタイミングは大切である。
大坂の陣についてはどうであったろう。

大坂の陣で、藤堂高虎の隊と戦った
長宗我部盛親を主人公にした
司馬遼太郎の作品がある。
「戦雲の夢」がそれだ。
この小説は、関ヶ原の戦いで、惨めな敗走をせざるを
得なかった盛親が、
再起をかけ、思いをこめた戦が大坂の陣であり、
それを決意するまでを描いている。
司馬は盛親に作品の中でこう言わせている。
「大阪は、ただ待つだけでよい。待てば家康が死ぬ。」
盛親は家康がいなくなれば、天下に隙ができて
二十歳を超えて、分別が付くようになってきた
秀頼につく大名がでてくると読んでいた、とみていたわけだ。
そのように司馬は書いている。
だが、現実の大坂の陣は、このタイミングより
わずかに早く始まってしまった。
その結果、大阪方は敗れ
そして、家康は大坂の陣が終わった次の年に没した。
タイミングが、少しずれたのである。

丸善の本店に行きました。
そうしたら人生の転機に読む本として
「長宗我部」が推薦されていました。

2012年10月17日水曜日

特別対談をいれて文春文庫になりました




 土佐の長宗我部氏の
 2千年、70代の歴史を書いた
「長宗我部」(バジリコ刊)が、文藝春秋社から、
10月10日に、「文春文庫」として発売されました。
バジリコ版を基本に、最近人気が出ている
歴史家(静岡文化芸術大学准教授)の
磯田道史さんとの特別対談を加えています。
また、月刊文藝春秋(11月号)の本の話の中にも
「著者は語る」で、この本を書くことになったいきさつや
気持ちを書いています。
写真は、八重洲文化センターに、並べていただいた
文春文庫「長宗我部」です。みなさん、よろしくお願いいたします。

2012年7月18日水曜日

梅雨があけました

ようやく、昨日(7月17日)に梅雨が明けました。
関係ないですが、それから連日
東京ヤクルトスワローズは負け続けています。
投手、野手含めて守備のミスが多いです。
昨年の中日のように後半一気にトップに駆け上がるか
と期待してたけど、これでは三位維持も難しそう。

ところで、長宗我部元親。
岡豊八幡宮に天正四年(1576年)に元親が献納した
百足蝶蜂漆江の「椀」の文様が興味深い。
「退かない百足」「鋭い攻撃をする蜂」「華麗に舞う蝶」の
三つの生き物を紋様にしたものである。
沈んだ赤い色の漆で鮮やかに描かれていて、
当初から奉納用に作られたものであろう。
中でも蝶の模様が面白い。
元々蝶は、万葉集にも登場していないし、
このころまでは、このように前向きに紋様として捕らえられてはいなかった。
「胡蝶」という言葉があるが、この「胡」は、西域を意味する。
つまり長安から経由してイスタンブールの方角
をさすらしい。
とすれば、「渡来系」の家系を持つ、秦氏である元親が
奉納した者として、この椀の紋様、「蝶」の使い方は
一考に値するではないか、と思われるのだが。

2012年5月16日水曜日

長宗我部の家紋について


家紋について、考えるとき、
 古い紋は帆掛け船とか、慈姑がある。
 一般的には、カタバミで、それは七カタバミと、一葉のカタバミ
 の二種があって、よく七つカタバミが、今好まれて使われているが、
 我が家の紋付などは、一葉のカタバミが使われていたし、
 古い墓のものも一葉だった。
 七つのカタバミは、ごくごく儀礼的な使い方をしていた
  のではないだろうか。
 たとえば、豊臣秀吉に会うときとか。
 もう一つ、カタバミの花の紋がある。
 これは、姫君とか、女性用として使われていたと思う。
 小さい5弁の花の紋で、花芯も5つある。
 この紋に出会ったのは、
 徳島の阿波大野に行った時のことだ。
 この阿波大野には後世(ごぜ)神社があって、
 その神社には顕節姫命(あきふしひめのみこと)が祭られている。
 その祭神は、盛親の室で、信親の娘である。
 その神社に残されていた、盛親の室が所持していたといわれる
 三枚の鏡の一つに、カタバミの花の紋が刻まれていた。
 うちには女紋で、カタバミの花があるということを聞いていた
 記憶があるので、今回高知の家に帰った際、探して、実証してみたい。
 なかなか瀟洒でよい紋である。
 その盛親の室は、阿波大野のちで亡くなったという伝説が土地には
 残っていて、今年の5月5日にその家臣たちの供養碑が造られた。
 地元の方々の大変なご尽力によってできた。
 
写真はその供養碑です。

2012年1月16日月曜日

長宗我部・異聞

 長宗我部家の歴史は、徳川家康や豊臣秀吉ら、
日本の権力者となった者の歴史を「表」とすると、
いわば裏面史となろう。
 特に、関ヶ原で元親の継承者盛親が敗れて以降の
長宗我部の歴史は、その足跡を伝えるものが乏しい。
 従って、その後の長宗我部氏を追うとなると
困難なものがある。
 ただ、村の伝承や、個人の家に残る資料を
求めていくと、ほのかにその歴史を浮かび
上がらせることが出来る。
 書籍「長宗我部」を出版させていただいた
おかげで、いくつかの資料が手元に集まった。
 その中に、興味を引かれる話がいくつかある。
  その一つは、盛親のその後、である。
  盛親は、表の歴史では、大坂の陣に加わった後、
 蜂須賀の家臣に捕らえられて、京都の河原で、
その側室、子供らとともに、家康により処刑された、
とされている。
 だが、最近、「河田という姓で、自分は長宗我部の
重臣である久武の末裔、と言い伝えられてきた」、
という人が現れた。
 これは重要なことだと、思う。
 なぜかというと、別の家に残された記録に、
 盛親は、大坂の陣で、大阪城が焼け落ちるのを見て、
肥後熊本に久武内蔵助とともに、逃げた。
そして、盛親は久武内蔵助、内蔵助は河田八右衛門
と改名して加藤家から、それぞれ禄をもらって
もてなされた、とある。
まったく残された地域、家が違うところに存在している
 この二つの、伝承が一部一致するのである。
 これは裏面史となるため、
その検証を続けえることは難しいけれども、
こうした話が書籍「長宗我部」を
きっかけにいくつかでてきて、興味深い。
これからもそうした「異聞」といえる話を紹介したい。

2011年11月14日月曜日

地名研究会で講演いたしました



民俗学者の谷川健一さんが主催する日本地名研究所の
総会である「全国地名研究者大会」に招かれて、
「長宗我部」をテーマに講演させていただきました。
総会には全国から200人もの研究者が集まり、
熱心に聴いていただきました。
講演終了後も質問が集中、気合の入ったお話が出来ました。
長宗我部関連でも、中村が四万十に、日和佐が美波に
といくつも地名が変わっています。
私の生誕地も「水道町62」が「上町」に。
地名が管長の勝手で変えられてしまうと、
歴史認識にも、大きく影響しますよね。

2011年11月4日金曜日

信長と元親

 22歳の初夏である永禄3年(1560年)5月。
長宗我部元親は長浜の合戦に参加、戦果を挙げる。
 数の上では劣勢でありながらも
元親は本山軍を破る。
これが元親の初陣である。
 このとき、本山茂辰の籠もる浦戸城も陥している。
浦戸は土佐一番の港を持っていて、
ここから甲浦を経由して、大坂にも、京の都にも行ける。
 元親は、本山が去った後の浦戸の城に登り、
何を思ったであろう。
 この同じ頃、元親と同じ天文年間に生まれた信長は、
都に上る途中の、今川義元を桶狭間で破っている。
 その情報を元親はいつ知ったのか。
いずれにしても、浦戸港を経由して情報も入ってくるであろうし、
元親が、信長に遭おうとの気持ちを持った場合、
都に上るのもこの浦戸からである。
元親は雑賀、伊賀衆とも、通じていたとみられ、情報は
いろいろとっていたようである。
 この桶狭間の合戦以後の元親の最大の関心事は、
当然織田信長に集中することになる。
浦戸城に吹き上げてくる、太平洋と浦戸湾双方からの風の
交わりの中で、長宗我部元親は、きっと天下の形勢に
広く心を馳せていたことであろう。

2011年9月24日土曜日

芸能ゆかりの秦神社

 秦神社は、長宗我部家ゆかりの地、
高知市の長浜にあります。
ここにはちょっと知られた地酒「酔鯨」の醸造所もあり、
また、海に近いところから、船乗りさんも多いところです。
長宗我部家の中興の祖元親は、
この地で戦勝祈願をしています。

 秦神社は、元親の末弟親房から十二代に当たる
弥九郎重親が、池神蔵に「奉願書」を出し、
建立が許されたものです。
「秦」の名がつけられたのは、長宗我部家が
秦の河勝の末裔であることから、
秦家の神社としたかったためでしょう。
日本全国を見渡しても、「秦神社」と称するところは
見当たりません。
また、秦家は世阿弥(秦元清)を生んでいることや、
四天王寺の楽人、猿楽の徒も秦河勝を
祖としていると言われ、芸能につながる家系です。
そうしたこともあり、秦神社は芸能ゆかりの神社
として位置づけることもできます。

2011年7月26日火曜日

元親の三つのチャンス


日本の観光について、考えている観光情報協会
の依頼で先日、講演しました。
そのときのテーマは
「元親が中央に躍り出ることが望めた三つのチャンス」
でした。
それは、本能寺の変、次いで小牧・長久手の戦い、
そして、関ヶ原です。
本能寺の変は、1582年に起こった明智光秀が起こした
主君の織田信長襲撃です。
元親は、本能寺の変の首謀者といわれる斉藤利光の縁続きでもあり、
この光秀の陰謀を事前に知っていたといわれます。
高島孫右衛門による「元親記」にも
「斉藤利光は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いをさし急いだ」
とある。
この戦で、元親が秀吉を光秀とともに
中国戦線に貼り付けさせるために背後から攻めていたら、
歴史は面白かったと思う。
次いで、小牧・長久手の戦い。
このとき長宗我部、徳川連合が出来ていた。
にもかかわらず、元親は参戦に送れをとった。
家康から恩賞も約束されていたのに、である。
もう一つは天下分け目の関ヶ原の戦い。
思うに元親は、もう二、三年生きながらえて、みずからこの戦を
やりぬくつもりだったのではないだろうか。
戦さの気配が近づくに連れて、元親は血肉躍らせていたのでは。
にもかかわらず、彼の命の火は、戦いを目前にして非情にも消えた。
元親は悲運の武将といえるのであろうか。

浜木綿の花が咲きました


五島列島から運んだ浜木綿の花が咲きました。
浜木綿の花はなぜか夕方に開きます。
六つの花弁はすべて純白です。
そして、柔らかな香りを放っています。
関東にも浜木綿は生えていますが、
少し五島のものとは、葉の形などが異なるようです。
いずれにしても、その白い花弁と香りは見事で、
五島列島の浜辺では、群生した浜木綿がみられ、
その浜木綿たちは海岸に寄せてくる波の音を聞きつつ、見事な花を咲かせています。

2011年5月28日土曜日

泰山木が咲きました

 庭の泰山木の花が咲きました。
 白く柔らかい花弁が、雨に静かに濡れています。
 高知では先週、元親の初陣祭が行われました。
 その初陣祭で、四万十に住む若いお嬢さんに
 あって、お話する機会を得ました。
 生き生きした素晴らしい瞳をもった方で、
 そのお嬢さんと話していると、 
 家康も、それまでずいぶん協力してきた長宗我部家に、
 せめて土佐中村(四万十)ぐらい残してくれてもよかったのに、
 なぜ、あのように徹底的に深い遺恨でもあるかのごとく
 潰してしまったのだろうか。と、考えてしまいました。
 
 家康に遺恨があるとすれば、私が思うには、
 それは小牧・長久手の戦いの際の、
 元親の出陣の遅れでは、ないか。
 それは秀吉が四国征伐を計画した際、
 家康は全く「調停」せず、
 冷たく静観しているところにも出ている。
 家康にしてみれば、「小牧・長久手の戦さで、元親さえ
 約束通り、もっと早く秀吉を攻めてくれていたら」
 の思いがずっと付きまとい、
 相当悔しかったのではないだろうか。
 小牧・長久手で勝利していれば家康に
 「タヌキおやじ」の異名も
 つかずにすんでいたことでしょうしね。

2011年3月11日金曜日

吾南の名勝と浦戸城

 高知県の長浜にある若宮八幡宮は土佐の長宗我部元親が
出陣の際に、戦勝祈願をした神社である。
 だから若宮八幡宮には元親公が使ったものといわれる陣太鼓や
小文書などがあり、初陣式などの祭事も行われている。
 最近、この神社が昭和60年に発行した長濱、浦戸、御畳瀬を中心に紹介した
「吾南の名勝」と題する本を読むことが出来た。
 長宗我部の系図を整理していただいた寺石正路氏がこの本の
巻頭に次のように書いている。
 「土佐国は四国の南部にありて、地勢は僻遠にありといえども、
幸いにして、山水奇絶にして、風趣に富むところが多く、
東に室戸あり、中に浦度湾あり、西に足摺岬あり、
この三大名勝は江山秀麗にして、ゆくゆく道路交通の開く
暁には、高知県の三大公園としてその勝名を海内に檀にするに
いたるは疑いなきところなるべし」
 このように、寺石氏は3名所を位置づけていた。
 そして、浦戸については、紀貫之が舟を止めたところであり、
元親の城があった場所でもあるので、土佐の風景と歴史
の両面で大切にすべき場所である、としている。
 なるほど、この3地点を結んで、俯瞰してみると、
なるほど土佐が一段と美しくみえてくるから不思議である。

2011年2月21日月曜日

「兼平のきり」と伝統のすさまじさ


 兼序は、秦河勝の末裔である能俊から
19代目にあたる長宗我部家の当主である。
長宗我部家は土佐七雄の中にあって、次第に勢力を
伸ばしてきていた。
特に、16代文兼が岡豊城に関白をも勤めたことがある一條教房を招いて以来、
本山らほかの豪族らからは「一條氏の権威を借りて、驕っている」
とねたまれていた。
そして、ついに永正5年(1508年)5月、3000の兵を集めて、
本山、大平、吉良らの軍勢が兼序の居城である岡豊にに攻め込んできた。
兼序の勢力はわずか5、6百人。かなうわけがない。
覚悟を定めた兼序は、嫡子の千翁丸を一條氏のところに
若い兵をつけて送り、自らは老兵とともに、
翌朝、最後の戦をすることを決める。
そのため、兼序ら城内に残ったつわものたちが宴を張ることとする。
そのときの様子を吉田孝世の「土佐物語」は次のように語っている。





『「この中で、誰か一人生き残らん。いっしょに討ち死にして、
また同じ蓮に生まれようではないか。
この喜びにここで最期の一さしを舞おうではないか」。
と、兼序に小鼓を参らせ、野田太鼓、桑名笛を仕り、兼平のきりをぞ囃子ける。』





戦国時代の武士の見事な生き様を描いている場面である。
だが、この中に書かれているの「兼平のきり」という言葉が何を指すのかわからなかった。
そこで、2011年2月19日。
能の「兼平」を、江戸川橋の「宝生流」の会に行きみせてもらった。
つまり、「兼平のきり」とは長宗我部家とも縁のある秦元清こと世阿弥の書いた能、「兼平」
の最後の部分「仕舞」である。能では、最後の五分程を「仕舞」という。
能「兼平」の「仕舞」は、今井の四郎兼平の亡霊が、その最期の様を
旅の僧に演じて見せる場面。
その内容は、太刀を逆さに咥えて、馬から落下、頭蓋骨を突き抜けるというものである。
長宗我部の19代兼序はこの「兼平のきり」を、老兵らの前で自ら演じ、
戦国武将の最期を見事に飾ろうと、確認しあったのである。
そのことが、この能を見て鮮明にわかった。
と同時に、そのとき500年前に、兼序が舞ったものと、
同じ世阿弥の能を見ている現代の自分が重なり、一瞬身震いを感じた。
それは伝統の持つすさまじさであろうか。