2015年2月18日水曜日

表の歴史には必ず裏の歴史もある


作家の司馬遼太郎は、エッセイなどに土佐人のことをとりあげていることが多い。また、人物についても土佐出身の長宗我部家の人物をよく書いている。土佐から発して四国をほぼ平定し、淡路や播磨、そして九州などを治める「西海の王」を夢見た長宗我部元親を主人公にした「夏草の賦」、さらには元親の継嗣盛親を描いた「戦雲の夢」などがある。

石田三成についた盛親が関ヶ原で徳川家康に敗れた後、長宗我部家は土佐を改易され、その後には山内一豊が入ってきて、長宗我部の遺臣たちは下士とされ、上士である山内侍とは厳しく差別された。そうした抵抗のエネルギーが坂本龍馬ら幕末の志士を生んだ。

ところで、司馬作品に私が衝撃を受けた文章がある。「夏草の賦」の最後の1文だ。それは「大坂の陣の結果、長曾我部家は、あとかたもなくなり、歴史から消えた。」となっていた。それではいったいこの私は何なのか。

確かに、大阪の陣により家康によって、長宗我部家の本流となる盛親の末流は根絶させられ、歴史の表舞台から消える。だが、現実には元親の流れをくんだ一族が、「忍従」の人生を決意し、必死で家を繋いだ。そして、三百年近くも続いた徳川時代を乗り越え、家臣筋の龍馬たちによってなされた大政奉還と同時に家名を復活させ、長宗我部の先祖を祀る秦神社も創設した。栄光に輝く徳川政権下の表の歴史の裏側でのわが先祖の生き方。これまた人生であり歴史でもある、と思う。