2010年11月10日水曜日

縁しなり

 「長宗我部」を著すに当たって、「原則に」
と心に決めたことがある。
 それは、末裔が自ら、わが先祖の歴史を書くのであるから、
それに使わせていただく資料類も、出来うる限り、
「末裔」によるものを使わせていただく、ということである。
「土佐偏屈人、による決め方と受けとられてもよい。そうしよう」
と思った。
そして、吉田孝世による「土佐物語」も、私家本であることを
承知のうえで、その末裔である川野喜代恵が
解読したものを基本にした。
ところが、執筆に当たって、本人には一切連絡が付かず、版元も「連絡先不明」という。
そこで、気にかかりつつも、そのまま、
不明な点はこちらの判断で修正したりして、本文にとり掛かった。

本日、「荻窪のカルチャーセンター」の二回目の講義が終わると、
直ちに私の所に二人の女性が、つかつかとやってきた。

ところが、私には女性から近づれた経験が全く無い、ヤツガレは、思わず、
ズズッ、と後ずさりした。

「私らは、川野喜代恵の娘です」「先生が、お書きになった、
川野喜代恵のものを基本的に使わせていただいた、
という一文を母の墓前に報告して、お線香を上げてきました」
「そのために、先日、土佐に行ってきました」。

驚きました。
川野さんのを使用させていただき、よかった。
荻窪で講座を持たせていただき、よかった。
体が浮かび上がったかと思うほど。

カラリと晴れ上がった空。
窓の外を見ると、道路の上を 枯れ落ちたプラタナスの大きな葉が
数枚、風に舞い上がっていました。