2010年6月18日金曜日

つかのまの夢

大坂の陣で、深手を負った五郎左座衛門は、山内家の判断で、入牢させられた。
 山内家19代の豊功氏は、「山内家としては、普通の罪びとの牢ではなく、
監視が付いた座敷であっただろう」といっている。
 しかし、五郎左衛門が、他の人々、特に長宗我部侍らと隔離されたのは
まがいの無い事実。この瞬間から、五郎左衛門の孤独な生活が始まった。
 セミの声を聞いたり、庭にやってくる蝶などを眺めることは出来ても、実の自由は無い。
そこで、五郎左衛門の楽しみは、時として見る、「つかのまの夢」ではなかっただろうか、
と思う。
 家族とともに馬に乗り、土佐の原野を駈けた時代。黒潮をわけて、大船で波をけり走った、
あの時の夢。
五郎左衛門はそうした夢を食べながら、あたかも漠(ばく)のように、
四年の長い苦渋の時代を送ったのであろう。


写真は、出版のお祝いにと、嵐山光三郎さんからいただいた団扇です。
嵐山さんからの句、「あじさいや きのふの本当 けふの嘘」
右奥には作家の坂崎重盛さんからの句。
「七変化(あじさい)の 殿の血脈 よみがえる」
この裏には、テレコムスタッフ社長、岡部憲司さんの句
「信親の 持つ首ゆれる 土佐の風」
を、いただいています。

ありがとうございます。

2010年6月17日木曜日

山内さんと話したこと


大げさに言えば山内家の当主と、400年ぶりに直接お話が出来ました。
それも、土佐の鏡川沿いの郭内で。お昼をご馳走になりながら。
山内家の19代当主の豊功さんは、無口な方ですが、みるからに誠実そうです。
お顔はすこし「龍馬伝」で山内容堂役をやっている近藤正臣に似ていますかね。
そこで聞いてみたかったこと。ずばり、このことです。
わが長宗我部家の祖先、元親の末弟、長宗我部親房を継いだ五郎左衛門が、
山内家に名乗り出た理由についてです。
山内家などに仕えなくても、じっと潜んで、プライド高く暮らすのが、
最も良かったのでは、という気がしていたからです。
このことが氷解いたしました。
豊功さんの答えはこうでした。
「自ら申し出られてきたら、長宗我部の血筋のものであっても、むやみに斬首は出来ない。それは、そのころの考え方です」
つまり「山内家が探し出し、摘発した場合は、逃げ隠れしていたということで処罰できる」
ということです。
ということは、五郎左衛門は、そのあたりを読んで、命がけの賭けをして、
長宗我部を残したのです。
だから、苦しくとも、山内の家臣となったのでしょう。