2012年10月17日水曜日

特別対談をいれて文春文庫になりました




 土佐の長宗我部氏の
 2千年、70代の歴史を書いた
「長宗我部」(バジリコ刊)が、文藝春秋社から、
10月10日に、「文春文庫」として発売されました。
バジリコ版を基本に、最近人気が出ている
歴史家(静岡文化芸術大学准教授)の
磯田道史さんとの特別対談を加えています。
また、月刊文藝春秋(11月号)の本の話の中にも
「著者は語る」で、この本を書くことになったいきさつや
気持ちを書いています。
写真は、八重洲文化センターに、並べていただいた
文春文庫「長宗我部」です。みなさん、よろしくお願いいたします。

2012年7月18日水曜日

梅雨があけました

ようやく、昨日(7月17日)に梅雨が明けました。
関係ないですが、それから連日
東京ヤクルトスワローズは負け続けています。
投手、野手含めて守備のミスが多いです。
昨年の中日のように後半一気にトップに駆け上がるか
と期待してたけど、これでは三位維持も難しそう。

ところで、長宗我部元親。
岡豊八幡宮に天正四年(1576年)に元親が献納した
百足蝶蜂漆江の「椀」の文様が興味深い。
「退かない百足」「鋭い攻撃をする蜂」「華麗に舞う蝶」の
三つの生き物を紋様にしたものである。
沈んだ赤い色の漆で鮮やかに描かれていて、
当初から奉納用に作られたものであろう。
中でも蝶の模様が面白い。
元々蝶は、万葉集にも登場していないし、
このころまでは、このように前向きに紋様として捕らえられてはいなかった。
「胡蝶」という言葉があるが、この「胡」は、西域を意味する。
つまり長安から経由してイスタンブールの方角
をさすらしい。
とすれば、「渡来系」の家系を持つ、秦氏である元親が
奉納した者として、この椀の紋様、「蝶」の使い方は
一考に値するではないか、と思われるのだが。

2012年5月16日水曜日

長宗我部の家紋について


家紋について、考えるとき、
 古い紋は帆掛け船とか、慈姑がある。
 一般的には、カタバミで、それは七カタバミと、一葉のカタバミ
 の二種があって、よく七つカタバミが、今好まれて使われているが、
 我が家の紋付などは、一葉のカタバミが使われていたし、
 古い墓のものも一葉だった。
 七つのカタバミは、ごくごく儀礼的な使い方をしていた
  のではないだろうか。
 たとえば、豊臣秀吉に会うときとか。
 もう一つ、カタバミの花の紋がある。
 これは、姫君とか、女性用として使われていたと思う。
 小さい5弁の花の紋で、花芯も5つある。
 この紋に出会ったのは、
 徳島の阿波大野に行った時のことだ。
 この阿波大野には後世(ごぜ)神社があって、
 その神社には顕節姫命(あきふしひめのみこと)が祭られている。
 その祭神は、盛親の室で、信親の娘である。
 その神社に残されていた、盛親の室が所持していたといわれる
 三枚の鏡の一つに、カタバミの花の紋が刻まれていた。
 うちには女紋で、カタバミの花があるということを聞いていた
 記憶があるので、今回高知の家に帰った際、探して、実証してみたい。
 なかなか瀟洒でよい紋である。
 その盛親の室は、阿波大野のちで亡くなったという伝説が土地には
 残っていて、今年の5月5日にその家臣たちの供養碑が造られた。
 地元の方々の大変なご尽力によってできた。
 
写真はその供養碑です。

2012年1月16日月曜日

長宗我部・異聞

 長宗我部家の歴史は、徳川家康や豊臣秀吉ら、
日本の権力者となった者の歴史を「表」とすると、
いわば裏面史となろう。
 特に、関ヶ原で元親の継承者盛親が敗れて以降の
長宗我部の歴史は、その足跡を伝えるものが乏しい。
 従って、その後の長宗我部氏を追うとなると
困難なものがある。
 ただ、村の伝承や、個人の家に残る資料を
求めていくと、ほのかにその歴史を浮かび
上がらせることが出来る。
 書籍「長宗我部」を出版させていただいた
おかげで、いくつかの資料が手元に集まった。
 その中に、興味を引かれる話がいくつかある。
  その一つは、盛親のその後、である。
  盛親は、表の歴史では、大坂の陣に加わった後、
 蜂須賀の家臣に捕らえられて、京都の河原で、
その側室、子供らとともに、家康により処刑された、
とされている。
 だが、最近、「河田という姓で、自分は長宗我部の
重臣である久武の末裔、と言い伝えられてきた」、
という人が現れた。
 これは重要なことだと、思う。
 なぜかというと、別の家に残された記録に、
 盛親は、大坂の陣で、大阪城が焼け落ちるのを見て、
肥後熊本に久武内蔵助とともに、逃げた。
そして、盛親は久武内蔵助、内蔵助は河田八右衛門
と改名して加藤家から、それぞれ禄をもらって
もてなされた、とある。
まったく残された地域、家が違うところに存在している
 この二つの、伝承が一部一致するのである。
 これは裏面史となるため、
その検証を続けえることは難しいけれども、
こうした話が書籍「長宗我部」を
きっかけにいくつかでてきて、興味深い。
これからもそうした「異聞」といえる話を紹介したい。