2011年7月26日火曜日

元親の三つのチャンス


日本の観光について、考えている観光情報協会
の依頼で先日、講演しました。
そのときのテーマは
「元親が中央に躍り出ることが望めた三つのチャンス」
でした。
それは、本能寺の変、次いで小牧・長久手の戦い、
そして、関ヶ原です。
本能寺の変は、1582年に起こった明智光秀が起こした
主君の織田信長襲撃です。
元親は、本能寺の変の首謀者といわれる斉藤利光の縁続きでもあり、
この光秀の陰謀を事前に知っていたといわれます。
高島孫右衛門による「元親記」にも
「斉藤利光は四国のことを気づかってか、明智謀反の戦いをさし急いだ」
とある。
この戦で、元親が秀吉を光秀とともに
中国戦線に貼り付けさせるために背後から攻めていたら、
歴史は面白かったと思う。
次いで、小牧・長久手の戦い。
このとき長宗我部、徳川連合が出来ていた。
にもかかわらず、元親は参戦に送れをとった。
家康から恩賞も約束されていたのに、である。
もう一つは天下分け目の関ヶ原の戦い。
思うに元親は、もう二、三年生きながらえて、みずからこの戦を
やりぬくつもりだったのではないだろうか。
戦さの気配が近づくに連れて、元親は血肉躍らせていたのでは。
にもかかわらず、彼の命の火は、戦いを目前にして非情にも消えた。
元親は悲運の武将といえるのであろうか。

浜木綿の花が咲きました


五島列島から運んだ浜木綿の花が咲きました。
浜木綿の花はなぜか夕方に開きます。
六つの花弁はすべて純白です。
そして、柔らかな香りを放っています。
関東にも浜木綿は生えていますが、
少し五島のものとは、葉の形などが異なるようです。
いずれにしても、その白い花弁と香りは見事で、
五島列島の浜辺では、群生した浜木綿がみられ、
その浜木綿たちは海岸に寄せてくる波の音を聞きつつ、見事な花を咲かせています。

2011年5月28日土曜日

泰山木が咲きました

 庭の泰山木の花が咲きました。
 白く柔らかい花弁が、雨に静かに濡れています。
 高知では先週、元親の初陣祭が行われました。
 その初陣祭で、四万十に住む若いお嬢さんに
 あって、お話する機会を得ました。
 生き生きした素晴らしい瞳をもった方で、
 そのお嬢さんと話していると、 
 家康も、それまでずいぶん協力してきた長宗我部家に、
 せめて土佐中村(四万十)ぐらい残してくれてもよかったのに、
 なぜ、あのように徹底的に深い遺恨でもあるかのごとく
 潰してしまったのだろうか。と、考えてしまいました。
 
 家康に遺恨があるとすれば、私が思うには、
 それは小牧・長久手の戦いの際の、
 元親の出陣の遅れでは、ないか。
 それは秀吉が四国征伐を計画した際、
 家康は全く「調停」せず、
 冷たく静観しているところにも出ている。
 家康にしてみれば、「小牧・長久手の戦さで、元親さえ
 約束通り、もっと早く秀吉を攻めてくれていたら」
 の思いがずっと付きまとい、
 相当悔しかったのではないだろうか。
 小牧・長久手で勝利していれば家康に
 「タヌキおやじ」の異名も
 つかずにすんでいたことでしょうしね。

2011年3月11日金曜日

吾南の名勝と浦戸城

 高知県の長浜にある若宮八幡宮は土佐の長宗我部元親が
出陣の際に、戦勝祈願をした神社である。
 だから若宮八幡宮には元親公が使ったものといわれる陣太鼓や
小文書などがあり、初陣式などの祭事も行われている。
 最近、この神社が昭和60年に発行した長濱、浦戸、御畳瀬を中心に紹介した
「吾南の名勝」と題する本を読むことが出来た。
 長宗我部の系図を整理していただいた寺石正路氏がこの本の
巻頭に次のように書いている。
 「土佐国は四国の南部にありて、地勢は僻遠にありといえども、
幸いにして、山水奇絶にして、風趣に富むところが多く、
東に室戸あり、中に浦度湾あり、西に足摺岬あり、
この三大名勝は江山秀麗にして、ゆくゆく道路交通の開く
暁には、高知県の三大公園としてその勝名を海内に檀にするに
いたるは疑いなきところなるべし」
 このように、寺石氏は3名所を位置づけていた。
 そして、浦戸については、紀貫之が舟を止めたところであり、
元親の城があった場所でもあるので、土佐の風景と歴史
の両面で大切にすべき場所である、としている。
 なるほど、この3地点を結んで、俯瞰してみると、
なるほど土佐が一段と美しくみえてくるから不思議である。

2011年2月21日月曜日

「兼平のきり」と伝統のすさまじさ


 兼序は、秦河勝の末裔である能俊から
19代目にあたる長宗我部家の当主である。
長宗我部家は土佐七雄の中にあって、次第に勢力を
伸ばしてきていた。
特に、16代文兼が岡豊城に関白をも勤めたことがある一條教房を招いて以来、
本山らほかの豪族らからは「一條氏の権威を借りて、驕っている」
とねたまれていた。
そして、ついに永正5年(1508年)5月、3000の兵を集めて、
本山、大平、吉良らの軍勢が兼序の居城である岡豊にに攻め込んできた。
兼序の勢力はわずか5、6百人。かなうわけがない。
覚悟を定めた兼序は、嫡子の千翁丸を一條氏のところに
若い兵をつけて送り、自らは老兵とともに、
翌朝、最後の戦をすることを決める。
そのため、兼序ら城内に残ったつわものたちが宴を張ることとする。
そのときの様子を吉田孝世の「土佐物語」は次のように語っている。





『「この中で、誰か一人生き残らん。いっしょに討ち死にして、
また同じ蓮に生まれようではないか。
この喜びにここで最期の一さしを舞おうではないか」。
と、兼序に小鼓を参らせ、野田太鼓、桑名笛を仕り、兼平のきりをぞ囃子ける。』





戦国時代の武士の見事な生き様を描いている場面である。
だが、この中に書かれているの「兼平のきり」という言葉が何を指すのかわからなかった。
そこで、2011年2月19日。
能の「兼平」を、江戸川橋の「宝生流」の会に行きみせてもらった。
つまり、「兼平のきり」とは長宗我部家とも縁のある秦元清こと世阿弥の書いた能、「兼平」
の最後の部分「仕舞」である。能では、最後の五分程を「仕舞」という。
能「兼平」の「仕舞」は、今井の四郎兼平の亡霊が、その最期の様を
旅の僧に演じて見せる場面。
その内容は、太刀を逆さに咥えて、馬から落下、頭蓋骨を突き抜けるというものである。
長宗我部の19代兼序はこの「兼平のきり」を、老兵らの前で自ら演じ、
戦国武将の最期を見事に飾ろうと、確認しあったのである。
そのことが、この能を見て鮮明にわかった。
と同時に、そのとき500年前に、兼序が舞ったものと、
同じ世阿弥の能を見ている現代の自分が重なり、一瞬身震いを感じた。
それは伝統の持つすさまじさであろうか。

2010年12月9日木曜日

兼平のきり

 古典能の演目に「兼平のきり」というのがある。
長宗我部家の家系で、興隆を果たした武将(国親の親)に兼序がいる。
その兼序は、周辺の土豪であった本山、吉良、山田らに、ねたまれていた。
というのも、十五代の元親以来、長宗我部は一條家など中央政権
との関係を強くして、きらびやかに見えていたようだ。
したがって、他の土佐の土豪たちには
「京の権勢をカサに鼻持ちなら無いヤツ」とはやされていた。

 ある日三千の勢力を持って、兼序の居城であった岡豊が攻められる。
むろん、攻め手は本山、吉良、山田らの連合軍である。
兼序の勢力はわずか、7,8百。

 これでは多勢に無勢、そこで兼序らは死を覚悟して、
継嗣の千雄丸らを逃した後、老兵等で「兼平のきり」を舞うのである。
 しかし、なぜこの能の演目を、この際に選んだのか、ということが、
ずっと気にかかった謎であった。
 そして、先日荻窪のカルチャーセンターでの講義を
聞きに参加していただいた方の中に、能の演者がいて、
このくだりについて説明していただき、謎は氷解した。
 この「兼平のきり」は最期の死に方が、「喉を突いて死ぬ」
という覚悟のすさまじいものであるそうだ。
 兼序や陥落覚悟の城中に残った老兵たちは、そういう能を舞ったのである。
しかも、能はわが秦一族の、世阿弥が創設者でもあった。

2010年12月7日火曜日

蠃姓系図

 長宗我部の系図を遡ると、「蠃姓(えいせい)系図」に行き当たる。
ところが、この蠃姓という言葉は広辞苑にも出てこず、現代では
ほとんど使われなくなった、
難しい用語である。
「長宗我部」を執筆するに当たって、「闔国(こう)之部」とか、
なにやらややこしく、古めかしい表記に何度もぶつかった。

 この現代ではほとんどつかわれない「蠃姓系図」というのは、
秦国に由来した系図のことである。
当時、日本には大陸から渡ってきた人々が多かった。
秦氏について、がまさしくそれである。
そして、その系図を紐解くと秦の始皇帝から、
日本に渡ってきた流れが良く分かる。
日本足彦国押人天皇(やまとたらしひこくにおしひとのすめらみこと、
孝安天皇)なども登場してきて、「日本書紀」をひもときつつ、
考えさせられる。
 この系図に長宗我部氏が記されているのだが、その源流となった
秦河勝の時代に、秦氏は全人口の5%に当たる20万人ほどもいて、
大きな勢力を維持していた、という。