2013年12月27日金曜日

土佐南学と勤王の志士

 南宋時代に朱子が、漢民族の国家を守ることを狙いとして、確立したのが朱子学(海南朱子学、南学)です。
 この海南朱子学が、大陸から初めて日本に入ってきたのは、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の時代です。
後醍醐天皇は、武家による政治が国体の本義に背くものとして、王政復古の意向を持っていたため、この学問に強い関心を寄せ、玄慧(げんえ)から講義を夜が白々と明けるまで受けたといわれます。
この海南朱子学は、南村梅軒によって、周防経由で土佐に入ってきました。
南村梅軒は土佐の吉良峰の城主、吉良宣經(のぶつね)主従に講義をしたといわれます。そして吉良條目という法律を作ります。
後醍醐天皇の時代から300年程が経過していました。
斬ったり斬られたりしていた戦乱の世に仁義道徳を熱心に学んでいたのです。
 
 その後、長宗我部元親もこの南海朱子学に興味を抱いて、郭中講義をして領民を導きます。そして、この南海朱子学の思想をもとに「長宗我部百箇條」が生まれます。

 関ヶ原の役で、長宗我部氏が改易された後も、谷時中、野中兼山、谷秦山らによって、土佐の山間僻地で、この海南朱子学は純粋培養されて、幕末に至り、武市半平太、坂本龍馬ら土佐勤王党の天皇親政の思想を花開かせ、明治維新を導きました。

2013年9月30日月曜日

夏の夜の夢 「元親公孫」

昭和4年の1月28日に昭和天皇から、

長宗我部家の中興の祖、長宗我部元親に対して正三位が下賜された。
「元親公孫」として、それを受けたのは私の祖父である親(ちかし)である。
その際の、贈位書の箱書きは「贈 元親公孫、十四世親」となっている。
当家の家系は元親の末弟である長宗我部親房(島)から繋がっていて、江戸時代は島姓を名乗っていた。
その二代目は「五郎左衛門」である。

実は、この親房から計算すると親(ちかし)は十五世となる。
天皇家が親を十四世としているのは、元親の次に五郎左衛門(親房の二代目当主)をおいて、それから発して十四世としているのではないだろうか。
そして、この五郎左衛門には謎が多い。
島家を継いで、長宗我部家の血筋であり、元親公から「大恩」を受け、重要な縁者である、ということは残された資料から分かる。
また、明確に記されてあるのは、大坂の陣(1615年)の時に、「二十二歳」であったということだ。なぜこの二十二歳だけ特筆して、後世に残しているのか。
そして、本人の五郎左衛門の直筆のものはなぜ残されていないのか。
このあたりのことをいろんな角度から類推してみた。
「この五郎左衛門は元親56歳のときの実子ではなかったのか」
そう考えるとぴったりと合う。発想が、とっぴ過ぎるであろうか。

智の人でもあった元親は、「豊臣家の崩壊、徳川家康の新しい時代の到来」
を予見し、長宗我部家を残すために、一番遠い、末弟の島家に家の将来を託して、秘匿したのではないか。
また、元親は家康の権謀術策を知り尽くしていたのである。
だから、山内家も五郎左衛門にじかに当主が私信出したり、丁重な対応をしてきたのではないだろうか。


2013年7月17日水曜日

徳川時代、元親法要の記録


 長宗我部家の菩提寺である雪渓寺(高知市長浜)に、徳川政権時代に執り行われた、長宗我部家中興の祖で、前領主の長宗我部元親の200回忌、250回忌の法要の詳細記録が保存されていた。
 そのなかには、当時の藩主である山内家に届け出た、法要執行の願書の詳細も記されている。
 具体的には、法要の周知の方法、その記述の詳細などが主なもので、これは、立て札に、藩内要所に執行の日時場所などを書き、行っている。
 他には、法要を行った僧侶名、法事の食事の詳細、参列者の氏名、香典の額、供物の内容など詳しい。
 250回忌にはわが長宗我部の十二代、與助重親も参列、香典に加え、花を供えている。

2013年4月24日水曜日

あやめの花が咲きました

暑い日とか寒い日とか続いています。
その性かどうか。
ヤクルトスワローズが負け続けています。
やっとカープの前田の犠牲をいただき勝ちましたが、
次の試合は雨で中止です。

それはともかく。
近世史の磯田道史さんの
「龍馬史」が5月初めに文春文庫になりますが、
その解説を書かせていただきました。
歴史に「もし」はないですが、
もし、盛親に運があって、関ヶ原
あるいは大坂の陣をうまく乗り越えていたならば、
土佐藩は幕末にあのように、
混乱し、また坂本龍馬、武市半平太ら多くの犠牲者を
出すことはなかっただろうし、
幕末史も大きく変わっていたであろう。
そんなことを思い、書きました。
お時間があったら、
読んでみてください。

2013年1月29日火曜日

タイミングについて


何事にもタイミングは大切である。
大坂の陣についてはどうであったろう。

大坂の陣で、藤堂高虎の隊と戦った
長宗我部盛親を主人公にした
司馬遼太郎の作品がある。
「戦雲の夢」がそれだ。
この小説は、関ヶ原の戦いで、惨めな敗走をせざるを
得なかった盛親が、
再起をかけ、思いをこめた戦が大坂の陣であり、
それを決意するまでを描いている。
司馬は盛親に作品の中でこう言わせている。
「大阪は、ただ待つだけでよい。待てば家康が死ぬ。」
盛親は家康がいなくなれば、天下に隙ができて
二十歳を超えて、分別が付くようになってきた
秀頼につく大名がでてくると読んでいた、とみていたわけだ。
そのように司馬は書いている。
だが、現実の大坂の陣は、このタイミングより
わずかに早く始まってしまった。
その結果、大阪方は敗れ
そして、家康は大坂の陣が終わった次の年に没した。
タイミングが、少しずれたのである。

丸善の本店に行きました。
そうしたら人生の転機に読む本として
「長宗我部」が推薦されていました。