古典能の演目に「兼平のきり」というのがある。
長宗我部家の家系で、興隆を果たした武将(国親の親)に兼序がいる。
その兼序は、周辺の土豪であった本山、吉良、山田らに、ねたまれていた。
というのも、十五代の元親以来、長宗我部は一條家など中央政権
との関係を強くして、きらびやかに見えていたようだ。
したがって、他の土佐の土豪たちには
「京の権勢をカサに鼻持ちなら無いヤツ」とはやされていた。
ある日三千の勢力を持って、兼序の居城であった岡豊が攻められる。
むろん、攻め手は本山、吉良、山田らの連合軍である。
兼序の勢力はわずか、7,8百。
これでは多勢に無勢、そこで兼序らは死を覚悟して、
継嗣の千雄丸らを逃した後、老兵等で「兼平のきり」を舞うのである。
しかし、なぜこの能の演目を、この際に選んだのか、ということが、
ずっと気にかかった謎であった。
そして、先日荻窪のカルチャーセンターでの講義を
聞きに参加していただいた方の中に、能の演者がいて、
このくだりについて説明していただき、謎は氷解した。
この「兼平のきり」は最期の死に方が、「喉を突いて死ぬ」
という覚悟のすさまじいものであるそうだ。
兼序や陥落覚悟の城中に残った老兵たちは、そういう能を舞ったのである。
しかも、能はわが秦一族の、世阿弥が創設者でもあった。