2013年12月27日金曜日

土佐南学と勤王の志士

 南宋時代に朱子が、漢民族の国家を守ることを狙いとして、確立したのが朱子学(海南朱子学、南学)です。
 この海南朱子学が、大陸から初めて日本に入ってきたのは、鎌倉時代の末期、後醍醐天皇の時代です。
後醍醐天皇は、武家による政治が国体の本義に背くものとして、王政復古の意向を持っていたため、この学問に強い関心を寄せ、玄慧(げんえ)から講義を夜が白々と明けるまで受けたといわれます。
この海南朱子学は、南村梅軒によって、周防経由で土佐に入ってきました。
南村梅軒は土佐の吉良峰の城主、吉良宣經(のぶつね)主従に講義をしたといわれます。そして吉良條目という法律を作ります。
後醍醐天皇の時代から300年程が経過していました。
斬ったり斬られたりしていた戦乱の世に仁義道徳を熱心に学んでいたのです。
 
 その後、長宗我部元親もこの南海朱子学に興味を抱いて、郭中講義をして領民を導きます。そして、この南海朱子学の思想をもとに「長宗我部百箇條」が生まれます。

 関ヶ原の役で、長宗我部氏が改易された後も、谷時中、野中兼山、谷秦山らによって、土佐の山間僻地で、この海南朱子学は純粋培養されて、幕末に至り、武市半平太、坂本龍馬ら土佐勤王党の天皇親政の思想を花開かせ、明治維新を導きました。