長宗我部家の歴史は、徳川家康や豊臣秀吉ら、
日本の権力者となった者の歴史を「表」とすると、
いわば裏面史となろう。
特に、関ヶ原で元親の継承者盛親が敗れて以降の
長宗我部の歴史は、その足跡を伝えるものが乏しい。
従って、その後の長宗我部氏を追うとなると
困難なものがある。
ただ、村の伝承や、個人の家に残る資料を
求めていくと、ほのかにその歴史を浮かび
上がらせることが出来る。
書籍「長宗我部」を出版させていただいた
おかげで、いくつかの資料が手元に集まった。
その中に、興味を引かれる話がいくつかある。
その一つは、盛親のその後、である。
盛親は、表の歴史では、大坂の陣に加わった後、
蜂須賀の家臣に捕らえられて、京都の河原で、
その側室、子供らとともに、家康により処刑された、
とされている。
だが、最近、「河田という姓で、自分は長宗我部の
重臣である久武の末裔、と言い伝えられてきた」、
という人が現れた。
これは重要なことだと、思う。
なぜかというと、別の家に残された記録に、
盛親は、大坂の陣で、大阪城が焼け落ちるのを見て、
肥後熊本に久武内蔵助とともに、逃げた。
そして、盛親は久武内蔵助、内蔵助は河田八右衛門
と改名して加藤家から、それぞれ禄をもらって
もてなされた、とある。
まったく残された地域、家が違うところに存在している
この二つの、伝承が一部一致するのである。
これは裏面史となるため、
その検証を続けえることは難しいけれども、
こうした話が書籍「長宗我部」を
きっかけにいくつかでてきて、興味深い。
これからもそうした「異聞」といえる話を紹介したい。